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『ドッグタグ・フィスト』(学徒出陣より)

わずらわしい豪雨が降っている。慰安所を開けても人の来る気配がない。窓の外を見ると大きな粒の雨が地面をえぐっている。雨がふっても散る花は無いしうるおう作物も無い。後ろの大河川で轟々と水が流れている。こんな基地は早く敵に攻撃されてみな殺しにされれば良いと思っていた。

遅刻した川島がズブ濡れになって入ってきた。上官はいつものように売女を連れ出して居ない。遅れても咎められる心配もない。彼は客である兵士が忘れていったタバコに火をつけた。軍務に慣れたせいか班員たちの態度は大きくなっていた。斑田もこの豪雨のなか見回りに行くと勝手に出ていった。私は昨日の使用済みタオルを投げてやった。彼はそれと気づかず濡れた顔や頭をふきはじめた。

「売女どもがうるせえ」

川島が控え室の方をにらみ付けて言った。豪雨のせいで慰安所に兵士が来ない。商売が始まるのを待っている女性たちの雑談が漏れている。私は関わりたくなかったので気に留めないようにしていた。せめてラジオでもあれば何も感じなくて済むのにと思った。

川島がうす汚れた袋に手を突っ込んで、何か金属音をジャラジャラと言わせ始めた。私はこいつの方がうるさいと思って近寄った。見ると袋には兵士たちが身に付ける認識票がたくさん入っていた。チェーンのついた金属プレートに氏名や血液型が刻印されている。戦死傷者の物だろうか。どこから持ち出してきたのか気味の悪いやつだ。

「そんな物をどうする」
「売女どもに焼きを入れるんだよ」
川島が器用に6枚のプレートを指と指の間にはさんで、チェーンを拳にぐるぐる巻きつけている。やがて彼の両手は突起物のついたカギ爪のようになった。
「やめておけよ」
「一人二人殴ったって誰も気にしねえよ」

こいつは気が狂ったのか、悪いクスリでもやったのだろうか。こんな凶器で人間を殴打をしたら無傷では済まない。私は要らぬトラブルに巻き込まれたり、また死体の処理をさせられるのが嫌だった。川島は両方の拳をがちがち言わせている。

「やるならここでやるなよ。外でやるとか他にあるだろ」
「こんな雨の中を誰が歩いてるんだよ」
「誰かはいるだろう。そいつをやればいいだろ」
「関係ないやつやってどうするんだよ。ふざけてんのか」
「じゃあ一人だけ帰すからそいつを外でやればいいだろ」
「一人だけやってどうするんだよ。全員やるんだよ」
「客が来たらどうするんだよ。おかしいだろ全員殴られてたら」
「顔じゃなくて腹を殴ったら文句ないだろ」
「誰がそんなやつに金を払うんだよ!」
「それで興奮するやつもいるだろ!嫌なら追い返せ!」

口論をしているとズブ濡れの斑田が戻ってきた。彼は私たちを見もせずにタオルを取りに奥へ行った。口げんかを続けるのが馬鹿らしくなって両方とも黙った。嘲笑うようにまだ控え室の向こうから雑談の声が漏れてくる。ついに川島が立ち上がりドアに近づいて思いきり蹴りつけた。

「うるせえ!殺すぞ!」

そう怒鳴って認識票の拳でドアを殴りつけた。プレートがドアに突き刺さり拳を引いたときにチェーンが切れて床にバラバラ散らばった。川島はそれ以上なにもせず肩を怒らせて慰安所から出て行った。

そのとき私は天井の雨漏りを見ていた。罪を被り、堕ちし者の償いとは何なのだろうかと考えていた。強い雨音に混ざって立て続けに発砲音が聴こえてきた。怒った川島が雨天に向かって借り物の拳銃を撃っていた。それで気が晴れるならそうすれば良い。しかしあいつは弾丸の不正使用を監督官にどう言い訳するつもりだろう。